このエッセイは、一般財団法人日本視聴覚協会様発行の月刊誌「視聴覚教育」vol.869 に掲載されたものです。

​父の桜・母の歌 ◉ 瀬木匡史

 坂道

 駅を降り踏切を渡るとすぐ左に小学校がある。校庭に走りまわる子どもたちの姿は見えないが、校庭の隅に植えられた大きな桜はフェンスを越えてその枝を歩道にまで伸ばし、今年も元気に蕾をつけている。一週間後には満開だな。勝手にそう決めつけ通り過ぎようとする私に「のんびり行けよ」と春風が枝を上下に揺らして視界を遮った。春休み、快晴。

 小学校の先には緩やかにカーブを描く坂道があって、軒先で花束を売っている石屋が道沿いにいくつか並んでいる。私はそのひとつに入り、大きく開いた白菊、百日草、鶏頭が包まれた花束を選び、柄杓とバケツを借りて勘定を済ませた。店番らしい老婆が「ご苦労様です」と言って両手を膝の上に重ね、丁寧に頭を下げた。相手が誰であっても、どんな生き方をしてきた者であっても、墓参に訪れた者には等しく敬意を払う。彼女の声音にそんな職業魂を感じた。それが鳩尾あたりにすうっと落ちて背中を押した。三月二十六日、亡父の誕生日。一週間後に、十三回忌。

 いい加減、忘れろ。自分にそう言い聞かせながら、坂道をゆっくり上る。この霊園内の街路樹には桜が植えられているから、父の命日が晴天であれば、ブルーシートの上で車座になり花を愛で、持ってきた酒と料理を楽しむ人で溢れる。酒好き、話好き、宴会好きだった父にとっては「してやったり」といったところだろう。良い季節に生まれ、良い季節に旅立っていったものだと、つくづく、思う。

 大学を卒業する少し前、私は父と大喧嘩をやらかして実家を出た。正確に言えば「追い出された」。景気の良い時代であったにも拘らず、就職活動もせずに遊んでばかりいたからだ。自分なりに「これからどう生きるか?」を考えていたつもりだったが、父からすればそうは映らなかったのだろう。私は私で、自分の価値観を一方的に押し付ける父への反抗心を捨てきれずにいた。そして二十数年後に実家に帰ってくるまで、私と父の確執は続いた。

 

 帰省

「お父さんが前立腺癌で余命半年と言われました。帰ってきてください。お願いです」

 当時、亜熱帯の島に暮らしていた私の元に母から手紙が届いた。職と土地を転々としつつ、私は相変わらず、私なりの人生を歩んでいた。

 海外生活への憧れから二十九歳でフランスに渡り、三十二歳のときに起業した。その会社が軌道に乗ったのを機に経営を共同設立者に一任し、不惑を迎えた年にはフランス領の南の島で自然ガイドを営み生計を立てていた。さらにその後に移り住んだ小笠原・父島では、現金収入は月に十万円程度しかなかったが、自然にさえ恵まれていれば人は生きていけることを学び実践していた。自給自足、地産地消。身土不二、全体食。

 海や土を相手に身体を使い食料となるものを探し育てる生活は、人の肉体と精神を鍛える。農作業や暮らしの中で「工夫する」ことを教えてくれる。極力、化学物質や化石エネルギーに頼らないから、人々も動植物も逞しくて元気が良い。

 その島で私が借りていた家は「家」と言うより「山小屋」のような代物だったが、ムニンヒメツバキという高木に囲まれた森の中にあって、春には白い花びらが雪のように舞う。夜にはウッドデッキでビールを飲みながら、月の満ち欠けで大潮までの日を計りゆっくり流れる時を味わう。酒の肴は早朝に自分で釣ってきたムロアジやカイワリの刺身。仲間に分けてもらったシカクマメは天ぷらに。狭い土地を借り育てたセロリやトマトは海水から作った自然塩だけで充分に美味い。周囲には野生化したパッションフルーツが「勝手に取って食え」とばかりに実をつけている。冬はアオリイカ、春は穴ダコ。年に一度の例大祭には大きな鍋で煮込んだウミガメのモツ煮が振る舞われ、祝い事には仲間が集まり、平飼いの鶏を絞めてダッチオーブンで丸焼きにする。そうして自然に感謝しながら命を頂き、命の尊さを五感で学んでいた。「命の尊さ」は人間だけに与えられた特権ではないのだと。

 そんな生活をしていたものだから、一時的な帰省のつもりで二十数年ぶりに実家に戻ったのだが、帰ってみればすでに父の両足はくるぶしの位置が分からないほどに浮腫み太くなっていた。末期の癌患者に特有の症状。リンパ液が体内を循環できず、重力で下半身に溜まるらしい。ほどなく、尿閉塞を起こして緊急入院。前立腺の腫瘍が膀胱に達し、腫瘍から出た血液が膀胱内で凝結して尿管を塞ぐようになった。以後、入退院を繰り返し、その度に膀胱内洗浄を受け、三度目に尿閉塞を起こしてからは家に帰ることができないまま、自身の誕生日のちょうど一週間後に旅立っていった。

 

 寿命

 老夫婦が慎ましく暮らしていくには充分な年金を受給していたにも拘らず、父は母に内緒で家と土地を担保に多額の借金をし、周囲の反対を押し切って始めた「事業」に注ぎ込んでいた。

「お袋、この家と土地、売ってもいいよな?」

 意を決し、鬼になったつもりで私は母に告げた。私が小学四年になるまで、母は家族の将来を考えて父と共に働きに出ていた。だから実家は、母が二十年間「女工」として働いた末の退職金で買った土地に父が住宅ローンを組んで建てたものだ。母の胸中を思えば自分勝手に生きた父が恨めしかった。

 家と土地の買い主が決まると、母と私はかつて祖母が暮らしていた小さな家に移り住んだ。だが、実家と土地を売り債権者に借金を支払っても、まったく見ず知らずの人からの借金返済の催促は翌年まで続いた。そうして父の負の遺産処理に二年を費やし、ようやく落ち着いた頃に今度は母が倒れた。救急車で運び込まれた病院での検査の結果、拡張型心筋症という心臓移植でしか完治の見込めない難病だったことが判明した。

 搬送先の中規模病院では対処できず、三週間もの時間をかけ容体が落ち着くのを待ち、母は大学病院に移された。だが、当時すでに八十歳。とても心臓移植に耐えられる年齢ではない。結果として、医師の勧めに従い、ICDという記録媒体とペースメーカーの機能を備えた機械を左胸の皮膚の下に埋め込み、先端にコイル状の電極が付いた二本のリード線をカテーテルで鎖骨下動脈から心臓内に通し、最深部の心筋二ミリの深さに電極を埋め込む……という先端医療を選択した。そして四年ほど寿命を延ばし、日本人女性の平均寿命までほんの少しの時間を残して母は逝ったのだった。

 

 戒名

 開花前の桜並木の坂道はおとなしい。場所が霊園ということもあるのだろうが、満開の時季とは比べものにならないほど静かだ。時折、犬を連れ散歩する人とすれ違う。坂道を上りきったところには小さな谷があるが、川が流れているわけではない。かつては川があったのかもしれないが、いまは雑木林になっている。

 その雑木林を古い橋が跨いでいて、そこを渡れば現在は私の名義になっている狭い墓地がある。周囲に並ぶ墓地には墓碑が雑草に覆われたものも多い。先祖の霊を弔う習慣は時を経るごとに薄れていくのだろう。そして、私も然り。半年ほど前、母が旅立っていかなければ父の十三回忌など忘れていたに違いない。

 

 働くを至上の幸と夫(つま)の靴磨きて揃える これでいいのか

 

 歌人だった母の歌である。「私が死んだら、葬式は家族だけで。法要も戒名も要らない」。体裁ばかりにこだわった父とは対照的に、母は現実を見つめ、日常を言葉で受け止めることに執心した。墓碑に刻まれた母の「戒名」は、瀬木志津江。彼女の筆名である。

​「視聴覚教育」vol.869(2020年3月号)「3月の随想」寄稿

​©︎ Tadashi SEKI 2020